プロローグというほどのものではないけど・・・
古い箱の中から出てきた数十本のネガの山。主に中学から高校を経て就職後3〜4年ぐらい間に撮った写真たちです。まぁ大体はピンボケ、手ブレで使い物にならないものばっかりだったりする訳ですが、それでも懐かしいことは懐かしい。最近、フィルムから直接スキャンもできるスキャナーを買いましたので、適当に読み込んでみました。 |
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1日目 [3月3日(月)]
時に昭和55年春。初めての九州旅行ですが、当然のことながら?飛行機なんで使いません。九州ワイド周遊券を手に、仙台を6:58発のL特急ひばり4号で出発! 写真は撮っていませんが、その時の特急券が残っていました。それでは記念すべき1本目のネガの1コマ目が何かというと…、東京駅で撮った新幹線0系電車でした。
東京からは素直に「ひかり号」に乗ったと思われます。この日は当時、広島県の呉線沿線に住んでいた従姉の家に泊めてもらうことになっていたので、そのまま三原まで乗った、と思っていたのですが、ネガを見ると0系の次の写っているのは岡山駅前で撮った岡山電軌の車両たち。これはちょっと意外でした。全く記憶にありません。 新幹線の切符は手元に残っていませんが、ひばり4号の上野着11:13から察すると、上野駅から東京駅の新幹線への乗り換え時間を30分として、東京11:36発のひかり109号岡山行きはちょっと無理。だとすると12:00発のひかり25号というのが妥当なところでしょう。これで行くと岡山に着くのは16:10。もう夕方ですね。 ここで5カットほど撮っていますが、秋田から来た1000形、東武から来た3000形、名古屋から来た3800形など今となっては貴重な車両たちが活躍していました(3000形は今も一部の車両が健在ですけど…)。
なかなか興味深い電車たちですが、そんなにゆっくりはしていられなかったはずです。従姉とはいえ、人様の家に行くのにあまり遅くなってはいけない、と思うぐらいの常識はあったような、なかったような(笑) ともかく、ネガの次のカットには従姉の娘たちが写っていました。この時、お姉ちゃんが6才ぐらい、妹は2才ぐらい。2人とも眠そうな様子もなく元気に写ってますので、従姉の家に着いた時間はそれほど遅くはないはず。 となると、特急料金は少し惜しいけど新幹線で三原まで行き呉線に乗り換えというパターンですかね。16:35発のひかり75号では岡山での滞在時間がちょっと短い上に三原には停まりません。必然的に次の16:55発のひかり133号。これで行くと三原着が17:39。三原からは17:51発の呉線に乗り換えると、19時前には従姉の家に着けそう。「まぁ、これかな」と、思ったものの、やっぱり特急料金がもったいない(^^ゞ 念のために山陽本線の時刻を見てみると…16:40発の快速電車があります。しかも呉線へ直通する列車で、従姉の家の最寄り駅の到着時刻は新幹線利用と比べても15分遅いだけ。岡山での滞在時間も15分減りますが、それでも30分あるし… う〜ん、どうやらこっちを採用ですね。 何はともあれ、あどけない表情で写っている2人のチビ供が、今ではそれぞれ2児の母。時の流れとはホントに恐ろしいものです。 |
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2日目 [3月4日(火)]
2日目は広島市内に住む中学時代の友人K君に会いに行きました。友人と言っても純真無垢だった私をテツの道に引き釣りこんだ悪いヤツです(笑) ってなことは置いといて、この日の待ち合わせ場所は西広島駅前だったようです。
荷物列車を撮った後は広島電鉄の写真が続きます。場所は広電の西広島駅というか己斐電停(2001年に西広島駅に統合)というか、その辺の西側、東側を行ったりきたり。たぶんこの辺のタイミングでK君と合流したようです。会って間もなくお昼を食べたので、待ち合わせ時間は11時30分とか12時とかでしょうか。会う前に周辺で少し写真を撮っているようなので、呉線で広島に10:46に到着。山陽本線に乗り換え西広島着が10:58だと思われます。 K君と食べたお昼はもちろん広島風お好み焼。…なんですが、東北から出てきた小僧はこんなお好み焼き、見たことありません。まずメニューの「うどん」とか「そば」の意味がわからない(「焼そば」なんていうのも有った気がしますが、これは普通の焼きそば?)。そのうえ、さまざまなトッピングたちが並んでいて戸惑うばかり。てきぱきとオーダーするK君を尊敬のまなざしで見るしかないのでした(笑) でも、食べてみたら、うまかったです。店のおばちゃんにハッサクみたいな大きなオレンジまでいただいてしまいました。 改めて写真を撮りつつ広電でK君の家へ向かいます。やって来たのは商工センター入口駅。ここからちょっと坂を上ってK君の家にお邪魔しました。プロのカメラマンを目指しているK君が撮った広電の写真を何枚かもらいましたが、さすがに何というか立派なキッチリした写真たちです。お返しに東北新幹線で試験運転をしていた962形の写真を渡したのですが、出来の差が歴然で…(泣) K君は広電で車掌のバイトをしており(流石は師匠です)、これから出勤しなければならないとのこと。K君とはここで別れ、再び、商工センタ駅付近で広電とすぐ脇を走っている山陽本線を写真撮影。
さらに西広島付近で12カットほど路面電車を撮っていますが、できれば他の場所で高床車を撮っていて欲しかったなぁ〜、と今になって思います。
この日も従姉の家に泊めてもらいますが、どうやって帰ったのかが不明。ネガを見ると西広島というか己斐電停付近で広電を撮った後は、国鉄西広島駅前でバスの写真を1枚撮ってます。ここも最初はどの駅か判らなかったのですが、Googleのストリートビューで確認。バスの後ろに写っているビルがまだありました。で、その次のカットは横川駅で撮った可部線の旧型国電なんですが、問題はその後。夜の駅、ホームから撮った意味不明な1枚。
呉線ではなく、山陽本線をそのまま上り三原経由で帰ったとすれば、なんとなく辻褄は合います 。 可部線の電車をよく見ると運転手の姿が見えませんので、これは横川始発の電車と思われます。当時は横川始発の電車が大半ですが15:11発は広島始発。この前は14:12発でここまで撮った写真の枚数から考えると少し早すぎる気がします。となると、この電車は15:59発と思われます。だとすると、この後に出る山陽本線の上りは16:27発。広島での乗換えが17:03発で三原着が18:28。日は暮れています。ただ、従姉の家に辿り着くのは20時近く。う〜ん、微妙に怒られそうだ(笑) |
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3日目 [3月5日(水)]
この日の最初のカットは前述のとおり、今はなき西鉄の北九州線。門司港から折尾まで北九州市を東西に走る路面電車です。いよいよ、と言うか、ようやく九州に入りました(笑)
ようやく場所が特定できるのが、魚町。ここで北方線を撮っています。西の方で少しずつ撮った後、この辺まで戻ってきたものと思われます。
この後は再び小倉の駅をバックに1枚撮り、砂津の車庫付近へ移動しています。距離からしてたぶん徒歩移動ですね。
続いてのカットは小倉駅の構内で3枚ほど撮っています。
その次のカットは、と言えば、何故か黒崎駅前で再び西鉄北九州線の路面電車。どうやら鹿児島本線で黒崎まで来たようです。
筑豊電鉄の2000形を撮った後は、そのまま筑豊電鉄で直方へ向かったと思われますが、この後、夜になるまで写真は撮っておらず、ネガから行動を推測することができません。で、肝心な記憶の方は、と言えば、困ったことにかなり混乱しています。虚ろな記憶の中では国鉄の直方駅から筑豊直方駅を探して歩き、ようやく見つけた高架駅を見上げて「これか〜」と思った…ような気がしていたのですが、どうやら逆? 筑豊電鉄で筑豊直方駅まで来て、駅を出るとき高架の駅を振り返り、その後、国鉄の直方駅を探した、と考えたほうが無理がなさそうです。 この後は、北九州の炭鉱地帯を複雑怪奇に走るローカル線に乗っているようなのですが、記憶の中ではこの3日後に乗ったと思っていました。ところが、この日に乗ったという物的証拠が出てきました。それがこの4枚の入場券↓。
あの縦横無尽に走るローカル線群のうち、この時乗った記憶があるのは、当時、北海道の美幸線と日本一の赤字路線を競っていた?添田線だけ。あとはどのルートで乗ったのかは全く覚えてなかったのですが、これで行くと、直方から伊田線で伊田へ行き、日田英彦山線に乗り換え、添田、そして添田線で香春へ、というルートが一番自然です。 唯一、記憶にある添田線ですが、乗った時には既に日が暮れていました。薄暗い旧式のディーゼルカーに乗っている乗客は私一人。他には運転手と車掌、そしてなぜか添乗中の国鉄職員が一人ずつ。要するに客1人に国鉄職員が3人ですから、「そりゃ、大赤字も納得!」でした。で、この車掌さん、よほど暇なのか、この地が舞台となっている五木寛之の小説「青春の門」について、ず〜っと語り続け、興味がない私としてはかなりキツかった(笑) それでも、終点の香春で入場券を買おうとしたら既に窓口が閉まっていたのですが、事務室の奥の駅員さんに掛け合ってくれてたのがこの車掌さんでした。香春駅の入場券の日付が合わないのは実はそのせいだったりします。 ルートについては、概ね上記のとおりなんだろうと思いますが、時間の特定が難しいです。添田線に乗った時には既に暗かったので、「添田18:17発-香春18:39着」だと少し早いかなぁ〜。香春では暗くなりますが、添田ではまだ日没直後の薄暗い状態。これだとすこしイメージと違います。1本遅らせると「添田19:51発-香春20:34着」。夜汽車のイメージには合いますが、これで逆算すると「直方18:41発-伊田19:08着」、「伊田19:28発-添田19:51着」となり、きれいにつながりますが、直方18:41発は少し遅いかなぁ〜。どうも筑豊直方駅を見上げたイメージとつながりません。だとすると、「直方17:34発で伊田18:00着」。これで行くと伊田での接続が悪く、結局伊田が19:28発となります。が、もともとの記憶があいまいなので、あ〜、結局判らない。 筑豊電鉄2000型の次に写っているのは、キハ82系の「にちりん」と581系「有明」です。撮影場所は小倉駅のようです。すると、香春からは素直に日田英彦山線で小倉に戻ったようです。
小倉で懐かしの国鉄特急を撮った後は(って言うか、もうちょっとちゃんと撮ってくれ〜!)、一度門司港まで行きここが始発の夜行普通列車「ながさき」で長崎を目指します。夜行とは言えなぜドン行列車に「ながさき」なんて名前が付いているかと言えば、この列車には寝台車が付いているため、寝台券を発行する上で名前が付いているほうが都合が良いという国鉄の事情によります。 当時、名前付きの普通列車は、この「ながさき」を含め4列車走っていましたが、小樽〜釧路の「からまつ」(この年の10月に廃止)以外の3本、「はやたま」(名古屋〜天王寺)、「山陰」(京都〜出雲市)、「ながさき」(門司港〜長崎)はその後、10年近く走り続けました。ちょっと意外なくらい頑張ったんだなぁ〜、という感じです。 その「ながさき」ですが、びっくりするほど印象が残っていません。さすがに寝台車には乗れず、乗ったのは普通の旧型客車。当時としては東北本線などでもごく当たり前に走っていた車両と同じですので、しょうがないかな、と言う気もしますが、それにしたって寝台車を撮るとか、せめてのぞきに行くぐらいのことはしてもらいたいものです。 その中でちょっとした出来事が記憶に残っています。列車自体は空いていましたのでボックスをひとつ占領し丸くなって眠りこけていると、肩だか背中だかを突かれ、 「おい、寝たいんなら寝台車行けよ」 という男の声で目覚めました。 見渡すと乗った頃よりは混んできましたが、それでも「他にも座るところあるじゃんか」と言う程度の混みよう。見上げると20代後半ぐらいのあまり品の良い感じはしない男性が見下ろしています。しぶしぶ起き上がると、男は私が寝ていた場所に足を投げ出すように座り、タバコをふかし、しかも私のマンガ本を勝手に読み出す。なんだこいつ〜、とか思いつつも目を合わせるのも嫌で、タバコの煙を避けつつ何も見えない車窓に目をやるしかないのでした。 数時間後、男はどこぞの駅で降りていきましたが、さらに1時間ぐらい過ぎた頃、車掌がやってしました。 「この辺でお心当たりのないお荷物はございませんでしょうか?」 ふと網棚に目をやると、さっきの男の手荷物が… そのまま知らん振りを決め込んだのは、いかにも心根の狭いことでした。と、今更ながら…反省です。すみませんでしたm(__)m |
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4日目 [3月6日(木)]
長崎に着いたのは早朝の6:41。早朝と言うには意外とゆっくりと言う気もしますが、「ながさき」は鳥栖から長崎本線に入り、佐世保線の早岐経由で大村線で諫早、そして再び長崎本線で長崎へというルートを辿るため、門司港〜長崎と言う距離感以上に時間がかかります。それになんといってもドン行列車っていうのも大きいですが…
なにはともあれ、長崎に来て、いきなり路面電車に乗ったようですが、1055号の次のカットは、なぜか長崎駅前に戻り長崎電気軌道を撮っています。何を考えているかよくわかりません。 と、一度は思ったのですが、思い当たる節がありました。手元に残る1枚の「長崎電気軌道 一日乗車券」。車内でこの切符の広告か何かを見て、これを買うために長崎駅まで戻ったのではないかと… とは言え、国鉄の駅では売ってないでしょうから、どこで買ったんでしょう? そもそも路面電車の車内では買えなかったのかなぁ〜 と、改めて調べてみると、車内では買えないようですが、長崎駅近くだと長崎観光案内所で売っているようですね。まぁ、30年前がどうだったかは判りませんが…
長崎駅前で2枚ほど撮った後、やってきた1054号に乗っています。この車両が長崎で乗った唯一の元仙台市電と言うことになりました。
待てど暮らせどやって来ぬ1051号。1051号の次に行った電車が戻ってきて、念のためその次の電車も待ってみて、やっぱりダメであきらめたってとこでしょうか。そうすると次の撮影ポイントが浦上車庫というのもわからなくはないです。車庫で休んでいるであろう1050形を狙ったのでしょう。 浦上車庫前で下車。目の前が車庫ですが、その前に今渡ったばかりの鉄橋が気になったみたいです。少しだけ戻り浦上車庫前〜大橋間の鉄橋で数枚撮影しています。
なんとなく不完全燃焼な気もしますが、再び電車で移動しています。次のカットはとある交差点です。
またまた移動。通過も含めると今日5回目の長崎駅前です。無駄な動きが多すぎです。
午後の行動ですが、いきなり怪しい動きをしています。次のカットは路面電車。国鉄浦上駅舎、どこか高台からの俯瞰写真と続きます。路面電車の写真はパックのビルの形とその向こうの病院の名前から浦上駅前と確認できましたので、多分、路面電車で浦上駅前まで行き、浦上駅でどうしたんだろう? 俯瞰写真については、なんだかよくわからないけど、その後は大浦天主堂、グラバー園と珍しく観光地を廻っています。午前中の眼鏡橋で観光癖でもついたかな? 写真やらその辺の地図やらを見ているうちにだんだん思い出してきました。俯瞰写真はどうやらオランダ坂へ行ったようです。ただし有名なあの石畳の写真はないし、なんだかよくわからないところだと思ったこともうっすらと思いだしました。もしかしたらオランダ坂には辿りつかなかった可能性もありです。 推測するに、長崎駅での昼食の後、長崎電気軌道の北の終点赤迫への乗りつぶしをしようとしたものの、少し観光でもしようかと気が変わり浦上駅前で下車。その後は、素直に路面電車で大浦海岸通を目指したかもしれませんが、わざわざ浦上駅の写真を撮っているところをみると、国鉄で長崎駅まで戻ったのかもしれません。というか、趣味的にはそうするような気がします。 時刻表をみると、12:41発の普通列車に乗るのはちょっと無理でしょうから、13:40発の急行「平戸」または、13:50発の急行「出島1号」ってところでしょうか。ちなみに九州ワイド周遊券を持っているので、急行列車は乗車可能です。 一通り観光した後は、今日の宿泊先へ向かいます。この日の宿は長崎県立ユースホステルです。改めて検索してみましたが、なかなか引っかかりません。よくよく調べてみたら、残念ながら平成14年に閉鎖されてしまったようです。 私にとって京都東山、東京高尾に続き、3番目に泊ったユースでしたが、記憶に残っているのは夕食後のミーティング。それまでミーティングというとゲームをしたり歌を歌ったりと、実は結構苦手だったりしたのですが、ここでは、まぁ、いつもそうだったのかは判りませんが、この夜はペアレントさんから長崎についてのいろいろなお話を伺いました。 内容で特に印象的だったのは、やはり原爆の話。数年前にペアレントさんのお父さんが倒れられた時、「あぁ、やっぱり」と思ったとのこと。「長崎の人は無意識のうちに原爆と結び付けて考えてしまう」とおっしゃっていました。もしかしたら数年後の福島の人も同じことを考えてしまうのかもしれません。為政者の方や電力会社の方は、経済効率だけではなく放射能が心身に与える影響についてもよくよく考えていただきたいものだと、平成の今、改めて考えてしまいました。 | |||||||||||||||||||||
5日目 [3月7日(金)]
5日目の朝は、この旅、初めての雨。この日の最初のカットは諏訪神社ですが、ここは昨日泊まった県立ユースのすぐ裏手。ちょっとした林を抜けたらすぐだったような気がします。
次の写真は諫早駅付近で撮った島原鉄道と長崎本線の列車が数枚ずつ写っていますが、どれもこれもパッとしない写真たちです。どんどんひどくなっている気がします。困ったもんです。 で、ここまで何で来たかも全く記憶にありません。ますますをもって困ったもんです。 とりあえず、カステラ屋さんを出るのが9時過ぎとすると、長崎駅に着くのが9:30から10:00ってとこでしょうか。もっともユースで少しゆっくりめ、9時前ぐらいに出れば、長崎駅は11時前後ぐらい。結局、9時半から11時ぐらいまでの幅があります。この間に発車する上り列車は、9:47発・10:12着の急行「ちくご・出島4号」、9:51発・10:42着の普通列車、10:58発・11:20着の急行「出島6号」、11:01発・11:49着の普通列車の4本。 この後、諫早から乗った島原鉄道の車内で昼食代わりに早速カステラの切り落としを食べた記憶がありますので、諫早11:55発の急行が一番自然です。すると長崎発は、…どれでも良いですね(笑) ただ、諫早駅近辺で島原鉄道や長崎本線の列車を撮っているので、諫早11:49着の普通列車ではちょっと無理。また、10:12着の急行「ちくご・出島4号」だと、1本前の諫早10:21発の加津佐行きに間に合ってしまうので、(車内で昼食替わりのカステラは早すぎな感じ)コレも違いそうです。ということは、10:42着の普通列車、または11:20着の急行「出島6号」のいずれかで来たと思われます。 と思ったら疑問が一つ出てきました。実は、この日の島原鉄道で使った切符がそのまま残っています。「諫早から島原外港(南島原の途中下車印あり)」「南島原から島原」「島原から島原外港」の3枚。コレだけなんです。私鉄の急行とは言え、100円の急行料金が必要ですので、急行に乗っていれば、当然「急行券」も残っていて然るべき! なぜ無いのか? それは急行に乗っていないから。ってコトになるのでしょうか? う〜ん、時間の辻褄はあうんですけどねぇ。
島原鉄道の車内では前述のようにカステラをかじっていたのですが、同じボックスに座った東京から来た大学生にもおすそ分け。輪行袋を抱えて乗ってきたこの方は、鉄道と自転車を使って九州旅行中とのこと。ここまで、一人で移動ばかりでしたので、久しぶりの話し相手が出来てなかなか楽しい1時間でした。 私は南島原で下車しましたが、更に先へ行くという学生さんにこれからの行程を聞いてみたら、私も乗る予定になっている、翌日夜の西鹿児島行きの夜行急行「かいもん」に小倉から乗るとのことで、そこでの再会を約束して別れたのでした。 南島原で下車したのはそこに車庫があったから。切符は諫早から島原外港までとなっていますから、車庫にいる車両たちをみて発作的に降りたものと思われます。 ちなみに今日の宿は、島原外港駅に程近い島原ユースホステルです。諫早を出るときに島原外港までの切符を買い、途中、気に入ったところで途中下車つもりが、思わぬ道連れが出来てついつい南島原まで来てしまった、と言うところでしょう。
南島原を堪能した後は、切符を買いなおし、島原まで戻っています。ここでは島原城の天守閣に登っていますが、お城は結構好きなんです。かなりあちらこちらのお城に行っていますが、仙台の青葉城と修学旅行で行った会津の鶴ヶ城を別にすれば、この島原城がその初めてかもしれません。と言いつつ、島原城で覚えているのは外観の立派さと中に入ったらコンクリートだったがっかり感だけだったりします。
島原城へ行ったのは多分3時くらいです。南島原12:44着の急行に乗ったとすれば、次の上りは13:46発のやはり急行列車。南島原で1時間ありますので、写真を撮るには十分すぎますが、上の入り江で撮った走行写真は上り列車と思われますので、これが13:46発の急行。すると乗ったのは次の上り列車、14:36発の各駅停車だと思われます。これで行くと島原は14:40着。ということになります。 島原城にはどれくらいいたのかな? 天守閣まで登っていますので、やはり最低で1時間、できれば2時間ぐらいは欲しいところ。 城の印象はあやふやですが、何故か覚えているのが、城から駅まで戻る道のりがひたすら忙しかったこと。天守閣を出てから次に乗る下り列車の発車時間まであと5分というタイミング。距離は、改めて地図で測ってみたら約740m。荷物はコインロッカーへ入れて観光、なんて習慣はまだありませんでしたので、カステラの食べ残しも含めてフル装備を抱えていたはずです。そこそこの重量を抱えて歩く時速8.4km/hはちょっと厳しい感じもしますが、やや下り坂ということもあってか、ギリギリ間に合いました。しかも駅舎の写真を撮る余裕もありました。以来、かなりの期間、これが荷物を持って早歩きする際の速さの基準となっていました(今は無理です!)。
島原から島原外港へ今日、最後の移動。島原城に1時間いたか2時間いたかによりますが、16:10発か17:04発かのどちらかだと思います。
この日、泊まった島原ユースホステルですが、残念ながらというか、申し訳ないというべきか、ほとんど記憶にありません。そもそもここに泊まったこと自体を忘れてました。 この頃はまだ旅館やビジネスホテルに泊まる才覚はありませんでしたので、親戚の家でなければ、車中泊かユースぐらいしかありません。調べてみたら島原ユースがありましたし、場所も島原外港駅のすぐ側。で、多分間違いなかろうかと… すみません、お世話になったはずなのに。 | |||||||||||||||||||||
6日目 [3月8日(土)]
今日は有明海を船で渡り、大牟田から福岡を経て今回2度目の門司港まで行き、昨日、島鉄で出会った大学生と再会するであろう西鹿児島行きの急行「かいもん」に乗る予定です。
島原外港から三池港までは45分の船旅ですが、ここも印象が残っていません。 しかもこちらも勘違いがあるようで、三池港到着後、ここから鹿児島本線の荒尾駅まで行き、そこから電車で大牟田へ行ったと思っていたのですが、三池港8:50発、大牟田駅9:13着の連絡バスが時刻表に載っています。どう考えてもこれを使うのが自然。 なぜ、荒尾駅に行ったと思い込んでいるかといえば、大牟田へ行く電車が思っていたのと逆の方向から入ってきたという記憶があるからです。地図を見ると荒尾駅までは三池港から大牟田駅までの距離とほぼ同じ。 自分の記憶を信じたいのはやまやまですが、島原外港駅で撮った島鉄の次に写っているのが特急「おおよど」号。写真のスミには大牟田駅と書かれた台車が写っていますので撮影場所は大牟田駅です。「おおよど」が大牟田に着くのは9:24。三池港に8:45に着いて荒尾には仮に大牟田と同じ9:13に着いたとすると、次来る列車は9:26発の急行「さんべ2号」…って、下関で山陰線経由と美祢線経由に別れていながら、その後、長門市で再びくっつくというあの伝説の急行ですね。ってことはどうでもよくて、大牟田で「おおよど」を撮ることは不可能。 長々と考えてようやく出た結論は、当然のことながら、三池港から行った駅は大牟田で、予想と逆方向から入線してきたのは、大牟田へ行く電車ではなく「おおよど」、ってことなんでしょうね。なんで荒尾駅と思い込んでいたのかは不明ですが…
「おおよど」を撮った後は、西鉄大牟田駅へ移動。ここから西鉄で福岡を目指します。
果たして上の1000形電車に乗ったのかどうかは不明ですが、この日乗った西鉄の切符も残っています。それによると大牟田から福岡までの切符には西鉄柳川と西鉄久留米の2ケ所の途中下車印。 最初の西鉄柳川ですが、ここには車両基地があります。多分、電車の車窓から車庫が見えたので、あわてて降りた、という南島原と同じパターンと思われます。 ただし、さすがは九州の雄たる西日本鉄道、当然のことながら車庫の中には入れず、遠巻きに何点か撮っているだけです。
という訳で、西鉄甘木線に乗っています。甘木線は西鉄大牟田線の宮の陣駅から分岐し甘木まで行く路線ですが、電車は大牟田線の花園駅まで乗り入れています。 手元の大牟田から福岡までの切符には、西鉄久留米駅の途中下車印がありますので、恐らくここから乗ったものと思われます。 ちなみに西鉄久留米では途中下車してみたものの、格別見るものもなかったような…そんなざっくりした記憶があります(地元の方、すみません)。
西鉄甘木線は、最初に大牟田から福岡まで切符を買っていることからしても、多分イレギュラーだったと思います。しかも結構時間を使ってしまっているので、この先は特に寄り道もせずに福岡まで行っています。 元々、この日は北九州のローカル線を乗り潰す気だったはずなのですが、でも結果オーライ。甘木線で正解だったと思います。これでもうちょっとちゃんとした写真を撮っていれば完璧ですけど… 何はともあれ、西鉄の福岡駅から国鉄の博多駅までは分不相応にもタクシーを利用しています。当時はまだ地下鉄が開業しておらず、バス乗り場を探すのも面倒になってのことですが、とにかく滅茶苦茶飛ばすタクシーで、当時既に死語となっていた「カミカゼタクシー」なんて言葉を思い出してしまいました。
香椎から先の行動、と言えば、当初の目論見では3日目の続きで北九州地区のローカル線の乗り潰しを目論んでいたはずですが、物証となるのは「若松駅」の入場券と折尾駅前と思われる写真だけ。 普通に考えて、香椎から鹿児島本線で折尾まで行き、筑豊本線に乗り換え若松。ここから折尾まで折り返し、さらにいくつかローカル線を乗っておきたかったところですが、多分、西鉄甘木線で時間を使いすぎ、タイムアップかな? その後乗る、西鹿児島行きの急行「かいもん5号」は門司港21:39発ですから、その気になればもう少し行けそうですが、ちょっと疲れが出てきましたかね。折尾から門司港まで、少なくとも小倉までは普通に鹿児島本線に乗っています。と断言できるのは、ここで嫌な記憶があるからです。 駅間で突然速度を落とした上りの普通電車。なんだろうと何気に外を見ると車外はすでに薄暗くなっています。そして間もなくやたらゆっくりと走る下りの貨物列車とすれ違いました。その瞬間、ものすごく嫌な予感がしたんですよね。そしてすれ違った後、小さな街灯に照らされた踏切が… そこには10数人の人たちが取り囲むように立っていました。その中心には子供が横たわっています。 人身事故でした。電車は間もなく通常の速度に戻りましたが、重いものが心に残ってしまいました。一瞬とは言え、遺体を見たのは恐らく初めてのこと。私の好きな鉄道によって失われた幼い命。しかも数時間後にはそのレールの上を通らなきゃいけない… しばしルートの変更も考えましたが、結局は予定通り門司港から急行「かいもん5号」に乗りました。小倉ではこちらも予定通り、島原鉄道で一緒になった大学生とも合流。事故現場付近では二人で黙祷しました。
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7〜8日目 [3月9日(日)〜10日(月)]
九州も今日でお別れという朝は雨です。大学生と別れ、終点西鹿児島の手前にある伊集院駅で下車。目的は鹿児島交通のキハ07タイプの気動車ですが、乗車はせずに見るだけです。て、いうか、なぜ乗らなかったんだろう? ひと駅、ふた駅ぐらいは乗れそうな気もするけど…
改札を抜けたらその前に並ぶ薩摩揚げの路地販売?に思わず「鹿児島」を感じてしまいますが、とりあえず駅前で鹿児島市電を撮っています(ボケてましたけど…)。 その後は、西鹿児島駅と列車で移動した鹿児島駅で何枚か撮っています。
まだ午前中ですが、7泊8日の初めての九州方面作戦はほぼ完了です。ここから今回3度目の夜行列車に乗ります。最初は、門司港から長崎までの普通列車「ながさき」、2番目はやはり門司港からの急行「かいもん5号」、と順番にランクを上げて3番目はついに特急「富士」に乗ります。当然、寝台車。しかもA個室。この旅、最大の贅沢です(笑) 「富士」の西鹿児島の発車時刻は… うっ、やばい! ここに至ってとんでもないミスに気づいてしまいました。ここまであちこちで列車の時刻を書いてきましたが、これは旅行の時に使った時刻表が見つからなかったため、比較的近かかった昭和54年4月号の時刻表を基に書いていました。この時刻表の「富士」の発車時刻は9:41で、終点の東京着は10:10と、運転時間が24時間を超えています。 「富士」は、私が乗る少し前まで日本で唯一24時間以上かけて走る列車だったのですが、日豊本線全線電化の完成により、西鹿児島〜宮崎間の牽引機がディーゼル機関車から電気機関車に変更されました。その結果、運転時間が24時間を切ったのですが… 迂闊だ。てっきり53年10月の改正の時だと思ってました。 そう言えば、牽引機がDF50じゃなくなってがっかりしたんですよね〜(泣) いずれにしても、これまで書いてきた列車の運転時刻の信憑性が一気になくなってしまいました。ど〜しよう? 改めて調べてみたら、日豊本線の全線電化は約半年前の昭和54年10月でした。一応、手持ちの時刻表をいろいろ探してみたのですが、一番直近の時刻表は、小型の昭和54年9月号。ってダメじゃん。 ウィキペディアの「1976年-1987年の国鉄ダイヤ改正」の項には、昭和54年は「この年はさほど大きな動きはなかったが、10月1日に日豊本線全線が電化され、寝台特急「富士」・「彗星」の速度が向上した。」とあり、あとは8月に運航を開始した「SLやまぐち」号に触れているだけ。ゴーサントウとゴーゴートウの大きなダイヤ改正の狭間でもあり、恐らく影響範囲は日豊本線の一部列車のみだったのだろうと推測し、すみません、コレまでの列車時間については、このままにさせてください。てか、え〜っと、…ごめんなさい。 気を取り直して…(^^ゞ、「富士」の西鹿児島発車時刻は、10:15。これは手元に残っている特急・寝台券に記載されています。ともかくこれで一気に東京へと向かいます。
「富士」の発車にあわせて、あの大学生が見送りに来てくれました。ホントにいい人だ〜(笑) ありがとうございました。 鹿児島を後にした「富士」は、錦江湾に沿って走ります。対岸には煙を吐く桜島が見えるはずなのですが…、雨の中ではそれもかなわず、かろうじて山裾が何とか見えるだけ。その上は厚い雲に覆われています。 この島はいまひとつ縁の薄い島で、これまで鹿児島にはこの時を含めて5回ほど行っているのですが、全容が見えたのは1度だけ。その1回も薄ぼんやりと見えただけで、一度もあの迫力の姿を見ていません。今度こそはと思うのですが…、という未来の未練をよそに「富士」快調に電化区間を走っていきます。 とりあえず、狭苦しい個室寝台ですが、昼間から人目を気にせずに寝そべる幸せ、っていうのはありますね。何しろ1両しかないA個室ですから堪能しなければもったいない。
お昼ごはんに西鹿児島で買った「とんそく弁当」を食べ、大分で基本編成を連結するための長時間停車の間に入場券を買いに走ったりした以外は、まったりと時が過ぎていきます。まだ、午前中だというのに靴下もGパンも脱いで楽〜な姿でくつろげるのは個室寝台ならでは。ひたすらせわしかった旅を振り返るゆとりの時間です。
特急「富士」は関門海峡をくぐり九州を離れます。トンネル専用機の電気機関車EF30を撮るために走る「富士」の車内を移動。私の乗った1号車は電源車を除けば最後尾。大分を過ぎたこの時点で「富士」は13両編成ですので距離は260m。揺れる車内ではちょっとした移動距離です。
この日の夕食は食堂車へ行ったような気がするのですが、何を食べたかの記憶は一切なし。何はともあれ広島あたりまでは起きていたのですが、目を覚ますと外は快晴。
朝食はどうしよう、と考えていたらこんな編成の端っこまで車内販売が来てくれました。でもたまたま廊下にいた時なので気づきましたが、個室にいたら気づかないままだったかもしれません。ラッキーなサンドイッチを食べたら、横になってもう一休み。なんだかグダグダな時が過ぎていきますが、「富士」はちゃくちゃくと終着駅へと近づいていきます。 もうしばらく乗っていたいなぁ〜、などと思っていたら、品川駅構内で信号故障が発生し、「富士」は横浜駅で足止め。 「お急ぎの方は京浜東北線をご利用ください」 なんてアナウンスも流れています。 いつまでたっても動く気配がないので車掌さんに聞いてみれば、あと30分は動かないとのこと。それをよいことに横浜駅構内をウロウロし、25分ぐらいでホームに戻ってきたら… ホームには発車のベルが鳴り響き、既に「富士」のドアは閉まっています。 「えっ!」 車掌室の窓から身を乗り出していた車掌さんと目が合うと、 「あっ、お客さん?」 慌ててドアを開けてくれましたが、間一髪でした。 かくして、特急「富士」は24時間超えで東京駅に到着したのでした。 | |||||||||||||||||||||
エピローグというほどのものではないけど・・・
東京についた後は、一度横浜へ戻り広島とは別の従姉の家でお昼をご馳走になり、夕食用にと崎陽軒の「シウマイ弁当」を持たされ、あとは、素直に「ひばり」で仙台へ戻ったと思います(この特急券は見つかりませんでしたが…)。 |