プロローグというほどのものではないけど・・・

 古い箱の中から出てきた数十本のネガの山。主に中学から高校を経て就職後3〜4年ぐらい間に撮った写真たちです。まぁ大体はピンボケ、手ブレで使い物にならないものばっかりだったりする訳ですが、それでも懐かしいことは懐かしい。最近、フィルムから直接スキャンもできるスキャナーを買いましたので、適当に読み込んでみました。

 今回、ピックアップしたのは、初めての九州旅行です。7泊8日の旅行で撮ったフィルムは5本と、当時としてはなかなかの大盤振る舞い。旅行へ行った時にはそれなりにメモを残すことが多いのですが、当時はメモをつける習慣がまだなかったのか紛失したのか、残念ながら手元にはありませんでしたので、いくつかの物的証拠と状況証拠、おぼろげな記憶、それと5本のネガを辿りながら、あの時の九州旅行を再現したいと思います。よろしければお付き合いくださいませ。


1日目 [3月3日(月)]

 時に昭和55年春。初めての九州旅行ですが、当然のことながら?飛行機なんで使いません。九州ワイド周遊券を手に、仙台を6:58発のL特急ひばり4号で出発! 写真は撮っていませんが、その時の特急券が残っていました。それでは記念すべき1本目のネガの1コマ目が何かというと…、東京駅で撮った新幹線0系電車でした。
 

 ▼東京駅に並ぶ0系電車

 3本プラス左手にボンネットの先端が見えて、都合4本の0系。まさにオールゼロの時代ですね。
 ちなみに後継車となる100系が登場するのはこの6年後のことです。


 東京からは素直に「ひかり号」に乗ったと思われます。この日は当時、広島県の呉線沿線に住んでいた従姉の家に泊めてもらうことになっていたので、そのまま三原まで乗った、と思っていたのですが、ネガを見ると0系の次の写っているのは岡山駅前で撮った岡山電軌の車両たち。これはちょっと意外でした。全く記憶にありません。
 新幹線の切符は手元に残っていませんが、ひばり4号の上野着11:13から察すると、上野駅から東京駅の新幹線への乗り換え時間を30分として、東京11:36発のひかり109号岡山行きはちょっと無理。だとすると12:00発のひかり25号というのが妥当なところでしょう。これで行くと岡山に着くのは16:10。もう夕方ですね。
 ここで5カットほど撮っていますが、秋田から来た1000形、東武から来た3000形、名古屋から来た3800形など今となっては貴重な車両たちが活躍していました(3000形は今も一部の車両が健在ですけど…)。

 ▼岡山駅前の岡山電軌の路面電車たち
3800型

3000型
 3800形は他形式と3連を組んでいます。3000形も別の写真では2連でした。
 夕方のラッシュ時対策なのでしょうが、連接車ではない車両がこんな連なって走ってる路面電車って割と珍しかったのではないでしょうか。


 なかなか興味深い電車たちですが、そんなにゆっくりはしていられなかったはずです。従姉とはいえ、人様の家に行くのにあまり遅くなってはいけない、と思うぐらいの常識はあったような、なかったような(笑) ともかく、ネガの次のカットには従姉の娘たちが写っていました。この時、お姉ちゃんが6才ぐらい、妹は2才ぐらい。2人とも眠そうな様子もなく元気に写ってますので、従姉の家に着いた時間はそれほど遅くはないはず。
 となると、特急料金は少し惜しいけど新幹線で三原まで行き呉線に乗り換えというパターンですかね。16:35発のひかり75号では岡山での滞在時間がちょっと短い上に三原には停まりません。必然的に次の16:55発のひかり133号。これで行くと三原着が17:39。三原からは17:51発の呉線に乗り換えると、19時前には従姉の家に着けそう。「まぁ、これかな」と、思ったものの、やっぱり特急料金がもったいない(^^ゞ
 念のために山陽本線の時刻を見てみると…16:40発の快速電車があります。しかも呉線へ直通する列車で、従姉の家の最寄り駅の到着時刻は新幹線利用と比べても15分遅いだけ。岡山での滞在時間も15分減りますが、それでも30分あるし… う〜ん、どうやらこっちを採用ですね。

 何はともあれ、あどけない表情で写っている2人のチビ供が、今ではそれぞれ2児の母。時の流れとはホントに恐ろしいものです。


2日目 [3月4日(火)]

 2日目は広島市内に住む中学時代の友人K君に会いに行きました。友人と言っても純真無垢だった私をテツの道に引き釣りこんだ悪いヤツです(笑) ってなことは置いといて、この日の待ち合わせ場所は西広島駅前だったようです。

 ▼山陽本線 西広島〜新井口 ※新井口は当時未開業

 この日、最初に写っているのは山陽本線を行くEF58とEF65(もしかしたらEF60)の重連荷物列車。荷物列車自体も懐かしいですが、つらら切の付いたいかめしいEF58が印象的です。

 最初、撮影場所が特定できなかったのですが、後ろの建物に「田中倉庫」の文字が見えます。とりあえず「田中倉庫」で検索してみたら「田中倉庫運輸」という会社が引っかかりました。住所は広島市西区草津港と西広島とは違うようですが、Webページをよく見ると過去に“広島市己斐町で会社設立”とあります。己斐といえば、広電の電停名にもあるようにこの辺の住所です。線路脇に見える小道をGoogleの航空写真で探してみたらそれらしい場所が見つかりまた。どうやらこれは西広島駅を通過して間もなくの「下り荷物列車」だと思われます。

 ていうか、この写真、線路に近すぎだ。


 荷物列車を撮った後は広島電鉄の写真が続きます。場所は広電の西広島駅というか己斐電停(2001年に西広島駅に統合)というか、その辺の西側、東側を行ったりきたり。たぶんこの辺のタイミングでK君と合流したようです。会って間もなくお昼を食べたので、待ち合わせ時間は11時30分とか12時とかでしょうか。会う前に周辺で少し写真を撮っているようなので、呉線で広島に10:46に到着。山陽本線に乗り換え西広島着が10:58だと思われます。

 K君と食べたお昼はもちろん広島風お好み焼。…なんですが、東北から出てきた小僧はこんなお好み焼き、見たことありません。まずメニューの「うどん」とか「そば」の意味がわからない(「焼そば」なんていうのも有った気がしますが、これは普通の焼きそば?)。そのうえ、さまざまなトッピングたちが並んでいて戸惑うばかり。てきぱきとオーダーするK君を尊敬のまなざしで見るしかないのでした(笑) でも、食べてみたら、うまかったです。店のおばちゃんにハッサクみたいな大きなオレンジまでいただいてしまいました。

 改めて写真を撮りつつ広電でK君の家へ向かいます。やって来たのは商工センター入口駅。ここからちょっと坂を上ってK君の家にお邪魔しました。プロのカメラマンを目指しているK君が撮った広電の写真を何枚かもらいましたが、さすがに何というか立派なキッチリした写真たちです。お返しに東北新幹線で試験運転をしていた962形の写真を渡したのですが、出来の差が歴然で…(泣)

 K君は広電で車掌のバイトをしており(流石は師匠です)、これから出勤しなければならないとのこと。K君とはここで別れ、再び、商工センタ駅付近で広電とすぐ脇を走っている山陽本線を写真撮影。
 

 ▼商工センター入口駅
低床車:3000形と高床車:1030形

 ▼3枚 撮影場所不明
高床車:1070形(元阪急)

高床車:1050形(元京阪)

低床車:3000形

 ▼西広島駅
高床車:1030形

 にしても、なんて素敵な電車たちなんでしょう。今は市内線から乗り入れてくる路面電車タイプの連接車ばかりですが、この頃は路面電車に混じって普通の電車(いわゆる高床車)が結構頻繁に運転されていました。15〜6メートル級ぐらいでしょうか、個性的な小型車がかわいいです。


 さらに西広島付近で12カットほど路面電車を撮っていますが、できれば他の場所で高床車を撮っていて欲しかったなぁ〜、と今になって思います。

 ▼己斐電停付近
1900型
 元京都市電の1900形です。1978年の京都市電廃止に前後して広島へ移籍した全15両が今なお活躍している、とても息の長い電車です。

2000型
こちらの2000形も永らく活躍していました。2007年に広島へ行ったときに広島駅付近で撮っていました。まだ走っていたのかと驚いたのですが、残念ながらその後、2009年に運用休止となってしまいました。


 この日も従姉の家に泊めてもらいますが、どうやって帰ったのかが不明。ネガを見ると西広島というか己斐電停付近で広電を撮った後は、国鉄西広島駅前でバスの写真を1枚撮ってます。ここも最初はどの駅か判らなかったのですが、Googleのストリートビューで確認。バスの後ろに写っているビルがまだありました。で、その次のカットは横川駅で撮った可部線の旧型国電なんですが、問題はその後。夜の駅、ホームから撮った意味不明な1枚。

 ▼横川駅 可部線72系

 うぐいす色の72系は仙石線でお馴染でしたが、ここの電車はうぐいす色をベースとしながら、前面の窓周囲以外がオレンジ色という変わった配色でした。
 サボは入っていませんが、駅の表示では「可部行き」です。

▼どこなんだろう?

 そもそも何のために撮ったのかも不明…です。この次のカットは翌日訪れた小倉駅近くで撮った西鉄北九州線です。ということはこの日の夜に撮った写真。この時期の広島の日没は18時ちょっと過ぎぐらい。広島駅にこの時間までいたとはちょっと考えにくく、呉線の駅という感じでもありません。すると三原駅でしょうか?


 呉線ではなく、山陽本線をそのまま上り三原経由で帰ったとすれば、なんとなく辻褄は合います
。  可部線の電車をよく見ると運転手の姿が見えませんので、これは横川始発の電車と思われます。当時は横川始発の電車が大半ですが15:11発は広島始発。この前は14:12発でここまで撮った写真の枚数から考えると少し早すぎる気がします。となると、この電車は15:59発と思われます。だとすると、この後に出る山陽本線の上りは16:27発。広島での乗換えが17:03発で三原着が18:28。日は暮れています。ただ、従姉の家に辿り着くのは20時近く。う〜ん、微妙に怒られそうだ(笑)


3日目 [3月5日(水)]

 この日の最初のカットは前述のとおり、今はなき西鉄の北九州線。門司港から折尾まで北九州市を東西に走る路面電車です。いよいよ、と言うか、ようやく九州に入りました(笑)
 山陽新幹線で関門海峡をくぐり、小倉に到着したのはお昼前だったような虚ろな記憶がありますので、11:22着のひかり41号…かな? ともかく小倉駅前で北九州線の電車を1枚撮った後は、路面電車でどうも西の方へ向かったようなのですが、撮影場所が特定できない写真が続きます。

 ▼小倉駅付近

 ▼3枚とも撮影場所不明

 少しずつ移動しながら撮っているようです。一番下は公園に登る坂道から俯瞰したような記憶があるのですが… もうひとつ自信なしです。


 ようやく場所が特定できるのが、魚町。ここで北方線を撮っています。西の方で少しずつ撮った後、この辺まで戻ってきたものと思われます。

▼魚町付近
1000形

331形

 上が北九州本線の連接車1000形、下が北方線の連接車331形。下は北方線の起点ですので魚町で間違いなしです。問題は上の方ですが、後ろに見える富士銀行が下の写真の富士銀行と同じビルではないかと… とりあえず窓の形は似ています。更にバックに見える7階建ての茶色いビルですが、Google Earthの立体モデルでそっくりな建物を確認。って、これは井筒屋みたいですね。写真ではあまりデパートっぽく見えませんが…

 北方線は他の路線が九州電気軌道として開業したのに対し、小倉軌道の馬車鉄道をその起源としており、軌間も他区間の1435mmに対し1067mmと異彩を放つ存在でした。塗装も何故かここだけ旧塗装のまま。電車のデザインもちょっとごつくて結構お気に入りでした(その割にはあまり数を撮っていないのが残念です)。  北九州線の異端児、北方線はその路線を北九州モノレールに譲り、このわずか8ヶ月後に姿を消してしまいました。


 この後は再び小倉の駅をバックに1枚撮り、砂津の車庫付近へ移動しています。距離からしてたぶん徒歩移動ですね。

 ▼小倉駅付近

 奥に見える建物が小倉駅です。今は画面を横切る路面電車が姿を消し、代わりに縦にモノレールが走っています。

 ▼砂津車庫

 夕方のラッシュを前に、庫(くら)で休む路面電車たち。この場所、今は観覧車もある複合商業施設「チャチャタウン小倉」になっているそうです。

 ▼砂津付近

 砂津の東側だと思います。この辺は専用軌道になっています。一番下の写真の専用軌道から併用軌道に替わるところが砂津の交差点です。


 続いてのカットは小倉駅の構内で3枚ほど撮っています。

 ▼小倉駅

 421系?の低運転台車。後姿で且つボケボケです。貫通扉がなぜだかガムテープで目張りされています。ちなみに先頭車は高運転台車でしたが、こちらもなぜかガムテープでした。


 その次のカットは、と言えば、何故か黒崎駅前で再び西鉄北九州線の路面電車。どうやら鹿児島本線で黒崎まで来たようです。

▼黒崎駅前

 安全地帯の表示の上にかろうじて「黒崎駅前」の文字が読み取れました。ここは降車専用の電停のようです。

▼黒崎車庫前駅 ※黒崎車庫前駅は平成11年廃止

 筑豊電鉄の2000系です。西鉄からの移籍車ですが、当時の西鉄大牟田線の特急電車2000系の塗装に準じた塗り分けとなっています。この車両は今も健在ですが、ヘッドライトが2灯化され塗装も変わりちょっと印象が変わっています。


 筑豊電鉄の2000形を撮った後は、そのまま筑豊電鉄で直方へ向かったと思われますが、この後、夜になるまで写真は撮っておらず、ネガから行動を推測することができません。で、肝心な記憶の方は、と言えば、困ったことにかなり混乱しています。虚ろな記憶の中では国鉄の直方駅から筑豊直方駅を探して歩き、ようやく見つけた高架駅を見上げて「これか〜」と思った…ような気がしていたのですが、どうやら逆? 筑豊電鉄で筑豊直方駅まで来て、駅を出るとき高架の駅を振り返り、その後、国鉄の直方駅を探した、と考えたほうが無理がなさそうです。
 この後は、北九州の炭鉱地帯を複雑怪奇に走るローカル線に乗っているようなのですが、記憶の中ではこの3日後に乗ったと思っていました。ところが、この日に乗ったという物的証拠が出てきました。それがこの4枚の入場券↓。

 これでこの日に直方、伊田駅、添田駅、香春駅の4駅を通ったことが判りました。
 あの縦横無尽に走るローカル線群のうち、この時乗った記憶があるのは、当時、北海道の美幸線と日本一の赤字路線を競っていた?添田線だけ。あとはどのルートで乗ったのかは全く覚えてなかったのですが、これで行くと、直方から伊田線で伊田へ行き、日田英彦山線に乗り換え、添田、そして添田線で香春へ、というルートが一番自然です。
 唯一、記憶にある添田線ですが、乗った時には既に日が暮れていました。薄暗い旧式のディーゼルカーに乗っている乗客は私一人。他には運転手と車掌、そしてなぜか添乗中の国鉄職員が一人ずつ。要するに客1人に国鉄職員が3人ですから、「そりゃ、大赤字も納得!」でした。で、この車掌さん、よほど暇なのか、この地が舞台となっている五木寛之の小説「青春の門」について、ず〜っと語り続け、興味がない私としてはかなりキツかった(笑)
 それでも、終点の香春で入場券を買おうとしたら既に窓口が閉まっていたのですが、事務室の奥の駅員さんに掛け合ってくれてたのがこの車掌さんでした。香春駅の入場券の日付が合わないのは実はそのせいだったりします。

 ルートについては、概ね上記のとおりなんだろうと思いますが、時間の特定が難しいです。添田線に乗った時には既に暗かったので、「添田18:17発-香春18:39着」だと少し早いかなぁ〜。香春では暗くなりますが、添田ではまだ日没直後の薄暗い状態。これだとすこしイメージと違います。1本遅らせると「添田19:51発-香春20:34着」。夜汽車のイメージには合いますが、これで逆算すると「直方18:41発-伊田19:08着」、「伊田19:28発-添田19:51着」となり、きれいにつながりますが、直方18:41発は少し遅いかなぁ〜。どうも筑豊直方駅を見上げたイメージとつながりません。だとすると、「直方17:34発で伊田18:00着」。これで行くと伊田での接続が悪く、結局伊田が19:28発となります。が、もともとの記憶があいまいなので、あ〜、結局判らない。

 筑豊電鉄2000型の次に写っているのは、キハ82系の「にちりん」と581系「有明」です。撮影場所は小倉駅のようです。すると、香春からは素直に日田英彦山線で小倉に戻ったようです。
 

▼小倉駅 [にちりん16号]

▼小倉駅 [有明18号] もしかしたら有明20号

 場所ですが、「有明」の写真には隣に新幹線ホームが見えます。つまり博多駅か小倉駅ということになりますが、気になるのがホームのカーブ。Googleの航空写真で見ると博多駅の新幹線ホームは全て直線。ということはこれは小倉駅での撮影ということになります。この後は、門司港駅から夜行普通列車「ながさき」に乗っているはずですので、その点でも辻褄が合います。
 この「にちりん」は上り16号。小倉に21:44着き、向きを変えて21:50に博多を目指し出発します。


 小倉で懐かしの国鉄特急を撮った後は(って言うか、もうちょっとちゃんと撮ってくれ〜!)、一度門司港まで行きここが始発の夜行普通列車「ながさき」で長崎を目指します。夜行とは言えなぜドン行列車に「ながさき」なんて名前が付いているかと言えば、この列車には寝台車が付いているため、寝台券を発行する上で名前が付いているほうが都合が良いという国鉄の事情によります。
 当時、名前付きの普通列車は、この「ながさき」を含め4列車走っていましたが、小樽〜釧路の「からまつ」(この年の10月に廃止)以外の3本、「はやたま」(名古屋〜天王寺)、「山陰」(京都〜出雲市)、「ながさき」(門司港〜長崎)はその後、10年近く走り続けました。ちょっと意外なくらい頑張ったんだなぁ〜、という感じです。

 その「ながさき」ですが、びっくりするほど印象が残っていません。さすがに寝台車には乗れず、乗ったのは普通の旧型客車。当時としては東北本線などでもごく当たり前に走っていた車両と同じですので、しょうがないかな、と言う気もしますが、それにしたって寝台車を撮るとか、せめてのぞきに行くぐらいのことはしてもらいたいものです。
 その中でちょっとした出来事が記憶に残っています。列車自体は空いていましたのでボックスをひとつ占領し丸くなって眠りこけていると、肩だか背中だかを突かれ、
「おい、寝たいんなら寝台車行けよ」
という男の声で目覚めました。
 見渡すと乗った頃よりは混んできましたが、それでも「他にも座るところあるじゃんか」と言う程度の混みよう。見上げると20代後半ぐらいのあまり品の良い感じはしない男性が見下ろしています。しぶしぶ起き上がると、男は私が寝ていた場所に足を投げ出すように座り、タバコをふかし、しかも私のマンガ本を勝手に読み出す。なんだこいつ〜、とか思いつつも目を合わせるのも嫌で、タバコの煙を避けつつ何も見えない車窓に目をやるしかないのでした。
 数時間後、男はどこぞの駅で降りていきましたが、さらに1時間ぐらい過ぎた頃、車掌がやってしました。
「この辺でお心当たりのないお荷物はございませんでしょうか?」
ふと網棚に目をやると、さっきの男の手荷物が… そのまま知らん振りを決め込んだのは、いかにも心根の狭いことでした。と、今更ながら…反省です。すみませんでしたm(__)m


4日目 [3月6日(木)]

 長崎に着いたのは早朝の6:41。早朝と言うには意外とゆっくりと言う気もしますが、「ながさき」は鳥栖から長崎本線に入り、佐世保線の早岐経由で大村線で諫早、そして再び長崎本線で長崎へというルートを辿るため、門司港〜長崎と言う距離感以上に時間がかかります。それになんといってもドン行列車っていうのも大きいですが…

 で、長崎に着いたら何をするかと言えば、いきなり長崎電気軌道に乗っているようです(笑)

 ▼元仙台市電の1050形

 この日、最初の写真は今回の旅行地を九州とした最大の目的ともいえる、長崎電気軌道の1050形です。と言ってもわかる人しかわからないとは思いますが、この電車、元々は昭和51年3月で廃止となった仙台市電の100型です。4年ぶりの再会は、乗った電車とのすれ違い。でもこんなに早く会えるとは思っていなかったので、感慨もひとしお…だったのではないかと推測します(笑) なにしろ1055号を撮った記憶は全くありませんでした。


 なにはともあれ、長崎に来て、いきなり路面電車に乗ったようですが、1055号の次のカットは、なぜか長崎駅前に戻り長崎電気軌道を撮っています。何を考えているかよくわかりません。

 と、一度は思ったのですが、思い当たる節がありました。手元に残る1枚の「長崎電気軌道 一日乗車券」。車内でこの切符の広告か何かを見て、これを買うために長崎駅まで戻ったのではないかと… とは言え、国鉄の駅では売ってないでしょうから、どこで買ったんでしょう? そもそも路面電車の車内では買えなかったのかなぁ〜 と、改めて調べてみると、車内では買えないようですが、長崎駅近くだと長崎観光案内所で売っているようですね。まぁ、30年前がどうだったかは判りませんが…

 ▼長崎駅前


 電停の影が長く伸びています。まだ“朝”の雰囲気です。こんな時間に観光案内所は開いていたのでしょうか?


長崎駅前で2枚ほど撮った後、やってきた1054号に乗っています。この車両が長崎で乗った唯一の元仙台市電と言うことになりました。

▼1054号車内

 車内に入ると、木の床とビニールレザーのシートが仙台時代のままで、本気で懐かしかったです。窓際には由来が書かれたパネルが掲示されていました。

蛍茶屋電停

 1054号で3系統の終点「蛍茶屋」まで行ったようです。長崎電気軌道の主力車のひとつ300形と並ぶと1050形の細さが際立ちます。

▼1051号

 1054号で折り返し。向こうから同じ元仙台市電の1051号がやってきました。先に見える電停は「新中川町」ですので、蛍茶屋を出てすぐのすれ違いということになります。って、蛍茶屋でおとなしく待っていたら、元仙台市電同士のすれ違いが見れたかも…と書いていたら、その時も同じことを考えたような気がしてきました(笑)

▼1054号

 下車後、去り行く1054号を撮影。なんですが、ここはドコ? 写真の流れだと、この後は浦上車庫付近で撮ってるのでその近辺だと思われるのですが、浦上車庫あたりは専用軌道なのに写真では併用軌道。

 何か手がかりはないかと、写真に写っている「長崎県養鶏農協」で検索してみると、今でもこの組織は健在でした。Webページに載っている住所も浦上車庫のすぐ近く。「あぁ、やっぱりな」と一度は思ったもの、ストリートビューでみると建物の形が全く違います。と言う以前に、今の住所だと建物の前を電車は走っていないし、もうひとつ辻褄があいません。
 引っ越しでもしたのかな? 広島の田中倉庫運輸の例もありますので、長崎県養鶏農協のWebページを良く見てみると、…ありました! 昭和57年に「長崎市馬町〜蛍茶屋間の道路拡幅伴い、本部事業所を伊勢町から長崎市大橋町に移転」したそうです。で、伊勢町ってドコ? と再び調べると、なんと先ほど1051号とすれ違った新中川町のちょっと先にそんな地名がありました。なにしろ「道路幅拡張に伴い」とあるくらいですので、ストリートビューで見ても全く面影がありませんが、道路の曲がり具合から見て新中川町の次、新大工町で下車したような気がします。

 「じゃ、なんでさっきすれ違った1051号が戻ってくるところを撮ってないんだよ」と言いたくなりますが、多分、それを狙って降りたんでしょうね。ただ、1051号はそのまま蛍茶屋の車庫に入って戻ってこなかった。そんなところかな〜。


 待てど暮らせどやって来ぬ1051号。1051号の次に行った電車が戻ってきて、念のためその次の電車も待ってみて、やっぱりダメであきらめたってとこでしょうか。そうすると次の撮影ポイントが浦上車庫というのもわからなくはないです。車庫で休んでいるであろう1050形を狙ったのでしょう。

 浦上車庫前で下車。目の前が車庫ですが、その前に今渡ったばかりの鉄橋が気になったみたいです。少しだけ戻り浦上車庫前〜大橋間の鉄橋で数枚撮影しています。

 ▼浦上車庫前〜大橋間

 元仙台市電同様に細身の電車がやってきました。これは元東京都電の700形です。東京では1067mmの杉並線専用車両でした。仙台で見慣れていたせいか、長崎の大振りな電車よりもこんな小振りな電車の方がなんか好きだったりします。


 鉄橋のすぐ後ろを走るのが長崎本線。DD51に牽引されたブルートレインがやってきました。恐らく長崎9:35着のあかつき3号だと思われます。が、なぜ全線電化された長崎本線でディーゼル機関車が牽引しているのでしょうか?


 続いてやってきたのが、なんだか古風な電車。集電装置がビューゲルです。元箱根登山鉄道小田原市内線の150形だと思うのですが… 車内にお客さんの姿は見えませんね。回送なのか、業務用なのか? それとも普通に営業用? だったらこれも乗ってみたかったです。

 ▼浦上車庫

 鉄橋での撮影の後は、車庫に向かったようですが、中には入らず電停から撮っているようです。数年後に訪ねたときには中に入れていただいていたので、この時も、と思っていたのですが、写真は外から撮ったこのカットともう一枚だけでした。う〜ん、シャイだったんですね(笑)

 肝心の1050形ですが、よく見ると3両その姿が確認できます。辛うじて…ですが。


 なんとなく不完全燃焼な気もしますが、再び電車で移動しています。次のカットはとある交差点です。

 

 電車の下にポイントが見えます。1系統で路線が分岐している場所は、長崎駅前と築町、西浜町の3ヶ所ですが、長崎駅前は明らかに違います。ストリートビューで見てみると紀国屋と書かれたデパートらしき場所にNTTのビルが見える築町も違うような気がします。残るのは西浜町ですが、後ろの特徴的な紀国屋もその右側の映画館らしき建物も見当たりません。ただ、道路の感じは良く似ています。

 この後は西浜町から蛍茶屋方面へ次の電停である賑橋との間にある専用橋で撮ってますので、それからいってもここは西浜町かな〜、と。

 長崎在住のKe Kiさまという方に教えていただきました。場所は西浜町で正解でした。「紀国屋と書かれたデパートらしき」建物は、「きのくにや」が正式名の 衣料品店だったそうです。下の写真には、その「きのくにや」の看板が見えます。
 そして「きのくにや」の右側にある「映画館らしき建物」は、「S東美」というスーパーでその中に映画館が入っていたとのこと。今、ストリートビューで見てみると一見こぎれいなビルに見えますが、よく見ると上の方はこの写真と同じ。どうやら同じビルだったようです。(2015/9/15追記)

 ▼西浜町〜賑橋

 こちらがその専用橋です。かの観光名所「眼鏡橋」はここからすぐです。

 ▼眼鏡橋

 ここまで来て初めての観光地です。今までただの一枚もありませんでした(笑)
 最近の写真を見ると両岸とも歩道が整備され小ぎれいになっていますが、この頃は片側が普通の民家です。洗濯物が生活感を醸し出し、結構好きです、この感じ。


 またまた移動。通過も含めると今日5回目の長崎駅前です。無駄な動きが多すぎです。

 ▼国鉄長崎駅

 特徴的な三角屋根の時計は12時ちょうど。無駄に歩き回ってる割には時間が経ってませんね。お昼は長崎駅の中の食堂で食べた気がするのですが、何を食べたのかの記憶は全くなし。後に「長崎に行ったけどちゃんぽんも皿うどんも食べなかったよ」と友人に語った記憶はあるので、それ以外の何かを食べたんでしょうが… まだ外食がちょっと苦手だった頃だったので、もしかして駅の立ち食いそばとか…かな〜。だったら微妙にさびしいかも(笑)

▼1053号

 長崎駅前に1053号がやってきました。が、僚友たちが仙台市電色に何となくですが似ている長崎標準色をまとっているのに対し、1053号だけは白い車体に「まるなか蒲鉾」の大文字。仙台市電は廃止されるまで広告電車は存在しなかったこともあり、その変わり果てた姿にいささかショックを受けたのは覚えています。

 ただ、この1053号はその後、長崎に渡った仙台市電5両の中で唯一、仙台への里帰りを果たした幸運車でもありました。


 午後の行動ですが、いきなり怪しい動きをしています。次のカットは路面電車。国鉄浦上駅舎、どこか高台からの俯瞰写真と続きます。路面電車の写真はパックのビルの形とその向こうの病院の名前から浦上駅前と確認できましたので、多分、路面電車で浦上駅前まで行き、浦上駅でどうしたんだろう? 俯瞰写真については、なんだかよくわからないけど、その後は大浦天主堂、グラバー園と珍しく観光地を廻っています。午前中の眼鏡橋で観光癖でもついたかな? 
 写真やらその辺の地図やらを見ているうちにだんだん思い出してきました。俯瞰写真はどうやらオランダ坂へ行ったようです。ただし有名なあの石畳の写真はないし、なんだかよくわからないところだと思ったこともうっすらと思いだしました。もしかしたらオランダ坂には辿りつかなかった可能性もありです。

 推測するに、長崎駅での昼食の後、長崎電気軌道の北の終点赤迫への乗りつぶしをしようとしたものの、少し観光でもしようかと気が変わり浦上駅前で下車。その後は、素直に路面電車で大浦海岸通を目指したかもしれませんが、わざわざ浦上駅の写真を撮っているところをみると、国鉄で長崎駅まで戻ったのかもしれません。というか、趣味的にはそうするような気がします。
 時刻表をみると、12:41発の普通列車に乗るのはちょっと無理でしょうから、13:40発の急行「平戸」または、13:50発の急行「出島1号」ってところでしょうか。ちなみに九州ワイド周遊券を持っているので、急行列車は乗車可能です。

 一通り観光した後は、今日の宿泊先へ向かいます。この日の宿は長崎県立ユースホステルです。改めて検索してみましたが、なかなか引っかかりません。よくよく調べてみたら、残念ながら平成14年に閉鎖されてしまったようです。
 私にとって京都東山、東京高尾に続き、3番目に泊ったユースでしたが、記憶に残っているのは夕食後のミーティング。それまでミーティングというとゲームをしたり歌を歌ったりと、実は結構苦手だったりしたのですが、ここでは、まぁ、いつもそうだったのかは判りませんが、この夜はペアレントさんから長崎についてのいろいろなお話を伺いました。
 内容で特に印象的だったのは、やはり原爆の話。数年前にペアレントさんのお父さんが倒れられた時、「あぁ、やっぱり」と思ったとのこと。「長崎の人は無意識のうちに原爆と結び付けて考えてしまう」とおっしゃっていました。もしかしたら数年後の福島の人も同じことを考えてしまうのかもしれません。為政者の方や電力会社の方は、経済効率だけではなく放射能が心身に与える影響についてもよくよく考えていただきたいものだと、平成の今、改めて考えてしまいました。


5日目 [3月7日(金)]

 5日目の朝は、この旅、初めての雨。この日の最初のカットは諏訪神社ですが、ここは昨日泊まった県立ユースのすぐ裏手。ちょっとした林を抜けたらすぐだったような気がします。

 朝イチでお参りを済ませて、次に向かったのは、カステラ屋さん。昨日のユースのミーティングの時にペアレントさんのお話に出てきた「ここは包装紙のデザインが良い。お土産にもなるレベル」というお店。といいつつ、どんなデザインかはすっかり忘れていたのですが、どっかにしまってあるはず。駅弁の掛紙を突っ込んである収納ボックスに一緒に入れたような気もしますが、なにしろ何の整理もせずにただ突っ込んでいるだけなので、探すの大変そうだなぁ〜、と案ずるよりも産むが安し。引き出しの一番上に入っていた日本国有鉄道の刻印入りの紙袋から古地図のようなデザインの紙がはみ出していました。これ!? 引き出しを開けて5秒くらいで見つけてしまいました。


 改めて包装紙のデザインは、長崎の古地図と大昔の日本地図の2種類ありました。確かに悪くないですね。お土産になるかどうかは微妙ですが…   写真では店の名前が入っているところは折っちゃっているので見えませんが、松翁軒とあります。場所は公会堂前と言うことで、諏訪神社から一つ目の電停の近く。普通に歩いていったのだと思います。ただ店が開くのは何時くらいだろう。10時とか11時だとそこまで間が持たないし、そもそも時間がもったいない。  一応、Webで調べてみたら、公会堂前の本店は9:00開店。これはアリですね。まぁ、30年以上前にも同じ時間に開けているかどうかは知りませんが…

 ちなみに買ったのは、切り落とし、つまり焼きあがったカステラの商品にならない端の部分だけを切り集めたもので、20×10cmぐらいの箱にぎっしり入っていました。500円ぐらいだったような気がします。



 ▼1051号

 昨日、撮り損ねた1051号です。場所の特定はできませんでしたが、恐らく諏訪神社からカステラ屋さんへ向かって歩いている途中ではないかと思います。

こちらもKe Kiさまから教えていただきました。場所は諏訪神社前〜公会堂前で合ってました。Canonの看板のビルやホテルみかどはマンションに変り、街の様相は随分変っていますが、「ふくい」の看板がついたビルは今も健在だそうです。Ke Kiさま、ありがとうございました。(2015/9/15追記)

 これが長崎での最後の写真です。1055号で始まり1051号で終わる。どれもロクな写真ではないのですが、まぁ、市内を元気に走りまわる仙台市電の姿を見れてうれしく、かつさびしく思ったのは確かですね。


 次の写真は諫早駅付近で撮った島原鉄道と長崎本線の列車が数枚ずつ写っていますが、どれもこれもパッとしない写真たちです。どんどんひどくなっている気がします。困ったもんです。
 で、ここまで何で来たかも全く記憶にありません。ますますをもって困ったもんです。

 とりあえず、カステラ屋さんを出るのが9時過ぎとすると、長崎駅に着くのが9:30から10:00ってとこでしょうか。もっともユースで少しゆっくりめ、9時前ぐらいに出れば、長崎駅は11時前後ぐらい。結局、9時半から11時ぐらいまでの幅があります。この間に発車する上り列車は、9:47発・10:12着の急行「ちくご・出島4号」、9:51発・10:42着の普通列車、10:58発・11:20着の急行「出島6号」、11:01発・11:49着の普通列車の4本。

 この後、諫早から乗った島原鉄道の車内で昼食代わりに早速カステラの切り落としを食べた記憶がありますので、諫早11:55発の急行が一番自然です。すると長崎発は、…どれでも良いですね(笑) ただ、諫早駅近辺で島原鉄道や長崎本線の列車を撮っているので、諫早11:49着の普通列車ではちょっと無理。また、10:12着の急行「ちくご・出島4号」だと、1本前の諫早10:21発の加津佐行きに間に合ってしまうので、(車内で昼食替わりのカステラは早すぎな感じ)コレも違いそうです。ということは、10:42着の普通列車、または11:20着の急行「出島6号」のいずれかで来たと思われます。

 と思ったら疑問が一つ出てきました。実は、この日の島原鉄道で使った切符がそのまま残っています。「諫早から島原外港(南島原の途中下車印あり)」「南島原から島原」「島原から島原外港」の3枚。コレだけなんです。私鉄の急行とは言え、100円の急行料金が必要ですので、急行に乗っていれば、当然「急行券」も残っていて然るべき! なぜ無いのか? それは急行に乗っていないから。ってコトになるのでしょうか? う〜ん、時間の辻褄はあうんですけどねぇ。

 ▼諫早駅周辺

 国鉄の気動車急行列車。キハ58系は仙台でもおなじみでしたが、真ん中のキハ65系は東北には来ていませんでしたので、それなりに新鮮です。


 島原鉄道のローカル列車。これに乗ったんだと思うのですが… あまり、急行っぽくはないですね。
   手前がキハ4500型を改造したキユニ4500型。奥が島鉄のキハ55ともいうべきキハ5500型です。湘南窓のキハ4500は背が低く、独特な印象です


 島原鉄道の車内では前述のようにカステラをかじっていたのですが、同じボックスに座った東京から来た大学生にもおすそ分け。輪行袋を抱えて乗ってきたこの方は、鉄道と自転車を使って九州旅行中とのこと。ここまで、一人で移動ばかりでしたので、久しぶりの話し相手が出来てなかなか楽しい1時間でした。
 私は南島原で下車しましたが、更に先へ行くという学生さんにこれからの行程を聞いてみたら、私も乗る予定になっている、翌日夜の西鹿児島行きの夜行急行「かいもん」に小倉から乗るとのことで、そこでの再会を約束して別れたのでした。

 南島原で下車したのはそこに車庫があったから。切符は諫早から島原外港までとなっていますから、車庫にいる車両たちをみて発作的に降りたものと思われます。
 ちなみに今日の宿は、島原外港駅に程近い島原ユースホステルです。諫早を出るときに島原外港までの切符を買い、途中、気に入ったところで途中下車つもりが、思わぬ道連れが出来てついつい南島原まで来てしまった、と言うところでしょう。

 ▼南島原

 なんだかよくわかりませんが、すごく古そうです。果たして動くのかどうかも判りませんが… と言うか、これが動く姿を見てみたかったです。


 急行色をベースに“ひげ”が素敵な島鉄のディーゼルカー。左はキハ55。右はキハ20です(国鉄と同タイプの車両と同じ形式名でした)。キハ55の屋根にはクーラーがずらりと並んでいます。国鉄への直通急行として使用されたそうです。 それはそれとして、キハ20ってキハ55と同じ顔してたんですね。タイフォンの数は一つ少ないけど…


 湘南顔のキハ4500型。その脇では一般色のキハ17と16でしょうか、おじさんが清掃中です。

 ▼南島原〜島鉄本社前

 南島原から少し島原よりの場所です。ここは入り江のようになっており、海はこの写真の右側になります。 やってきたのはキハ55のようですが、ヘッドライトが2灯ある島鉄のオリジナルデザインのようです。


 南島原を堪能した後は、切符を買いなおし、島原まで戻っています。ここでは島原城の天守閣に登っていますが、お城は結構好きなんです。かなりあちらこちらのお城に行っていますが、仙台の青葉城と修学旅行で行った会津の鶴ヶ城を別にすれば、この島原城がその初めてかもしれません。と言いつつ、島原城で覚えているのは外観の立派さと中に入ったらコンクリートだったがっかり感だけだったりします。

 ▼島原城



 島原城へ行ったのは多分3時くらいです。南島原12:44着の急行に乗ったとすれば、次の上りは13:46発のやはり急行列車。南島原で1時間ありますので、写真を撮るには十分すぎますが、上の入り江で撮った走行写真は上り列車と思われますので、これが13:46発の急行。すると乗ったのは次の上り列車、14:36発の各駅停車だと思われます。これで行くと島原は14:40着。ということになります。
 島原城にはどれくらいいたのかな? 天守閣まで登っていますので、やはり最低で1時間、できれば2時間ぐらいは欲しいところ。

 城の印象はあやふやですが、何故か覚えているのが、城から駅まで戻る道のりがひたすら忙しかったこと。天守閣を出てから次に乗る下り列車の発車時間まであと5分というタイミング。距離は、改めて地図で測ってみたら約740m。荷物はコインロッカーへ入れて観光、なんて習慣はまだありませんでしたので、カステラの食べ残しも含めてフル装備を抱えていたはずです。そこそこの重量を抱えて歩く時速8.4km/hはちょっと厳しい感じもしますが、やや下り坂ということもあってか、ギリギリ間に合いました。しかも駅舎の写真を撮る余裕もありました。以来、かなりの期間、これが荷物を持って早歩きする際の速さの基準となっていました(今は無理です!)。

 ▼島原駅

 改札の向こう側にワムが見えます。そこそこ貨物列車が設定されていたのだと思います。南島原の車庫にもディーゼル機関車が停まっていました。


 島原から島原外港へ今日、最後の移動。島原城に1時間いたか2時間いたかによりますが、16:10発か17:04発かのどちらかだと思います。
 

 ▼島原外港

 恐らく島原から乗ってきた列車だと思います。キハ4500の2連ですね。
 ここもネット上の写真や動画で場所を特定できました。この奥の方が、平成20年に廃止されてしまった加津佐方面となります。


 この日、泊まった島原ユースホステルですが、残念ながらというか、申し訳ないというべきか、ほとんど記憶にありません。そもそもここに泊まったこと自体を忘れてました。
 この頃はまだ旅館やビジネスホテルに泊まる才覚はありませんでしたので、親戚の家でなければ、車中泊かユースぐらいしかありません。調べてみたら島原ユースがありましたし、場所も島原外港駅のすぐ側。で、多分間違いなかろうかと…

 すみません、お世話になったはずなのに。


6日目 [3月8日(土)]

 今日は有明海を船で渡り、大牟田から福岡を経て今回2度目の門司港まで行き、昨日、島鉄で出会った大学生と再会するであろう西鹿児島行きの急行「かいもん」に乗る予定です。
 そのため、ユースで朝食をとった後、すぐ近くにある島原外港へ向かいますが、その途中にある島原外港駅で行き掛けの1枚を撮ろうとした…っていう記憶は虚ろにあるんです。

 ▼島原外港

 前日の最後の写真と同じ島原外港駅です。向きは逆で、この先が諫早方面となります。 写っている列車はテールライトが付いているのかどうかよく判りませんが、左側の線路を使っているところを見ると後ろ向き。諫早行きの上り列車だと思います。  左手のちょっと南国を感じさせるデザイン?の建物、これも島原外港駅をテーマにした動画をあさっていたら出てきました。更に(意外なことに)ストリートビューでも確認。どうやらカステラ屋さんのようです。

 ただ、一点気になるのが、カステラ屋さんの脇に灯る3つの明かり。なぜ営業開始前の店に明かりが点いている。もしかしたらこの日ではなく前日の夕方なのか?とも思いますが、ネガの上では日付の区切りは判りません。
 この日の朝だとすると、この列車は島原外港7:56発諫早行きのはず。そしてこれから乗る船は島原外港8:00発の三池港行き。その間、わずかに4分。なんとも微妙なタイミングです。地図で確認すると島原外港駅から島原外港までは約340m。昨日の島原城での実績から行けば十分間に合うようにも思いますが、切符も買わなきゃないし、鉄道に乗るよりは船に乗る時の方が時間がかかるような気もします。

 事前に切符を買っておいて、荷物を待合室にでも置いておけば、そこそこ余裕でいけそうな気もしますが…、どうだったのかなぁ。


 島原外港から三池港までは45分の船旅ですが、ここも印象が残っていません。 しかもこちらも勘違いがあるようで、三池港到着後、ここから鹿児島本線の荒尾駅まで行き、そこから電車で大牟田へ行ったと思っていたのですが、三池港8:50発、大牟田駅9:13着の連絡バスが時刻表に載っています。どう考えてもこれを使うのが自然。
 なぜ、荒尾駅に行ったと思い込んでいるかといえば、大牟田へ行く電車が思っていたのと逆の方向から入ってきたという記憶があるからです。地図を見ると荒尾駅までは三池港から大牟田駅までの距離とほぼ同じ。

 自分の記憶を信じたいのはやまやまですが、島原外港駅で撮った島鉄の次に写っているのが特急「おおよど」号。写真のスミには大牟田駅と書かれた台車が写っていますので撮影場所は大牟田駅です。「おおよど」が大牟田に着くのは9:24。三池港に8:45に着いて荒尾には仮に大牟田と同じ9:13に着いたとすると、次来る列車は9:26発の急行「さんべ2号」…って、下関で山陰線経由と美祢線経由に別れていながら、その後、長門市で再びくっつくというあの伝説の急行ですね。ってことはどうでもよくて、大牟田で「おおよど」を撮ることは不可能。

 長々と考えてようやく出た結論は、当然のことながら、三池港から行った駅は大牟田で、予想と逆方向から入線してきたのは、大牟田へ行く電車ではなく「おおよど」、ってことなんでしょうね。なんで荒尾駅と思い込んでいたのかは不明ですが…

 ▼キハ80系特急「おおよど」

 という訳で、問題の「おおよど」です。
 「おおよど」は博多と宮崎を結ぶ特急ですが、鹿児島本線−肥薩線−吉都線−日豊本線というローカルなルートをたどるディーゼル特急でした。
 走る路線が路線だし、ディーゼルカーだしさぞかし鈍足だったんだろうな、と思っていたのですが、改めて時刻表を見てみると、この下りの「おおよど」は博多を8:25分に発車、上記のルートをたどり宮崎に着くのが14:27分。一方、博多を46分前の7:39分に発車した「にちりん3号」は鹿児島本線−日豊本線のメインルートをたどり、宮崎着は14:15分。12分しか違いません。
 所要時刻は「おおよど」が6時間02分。「にちりん」が6時間34分。「おおよど」の方が速かったんですね。意外でした。ちなみに表定速度は「おおよど」が58.4km/h。「にちりん」が62.2km/h。こっちはこんなものかなぁ〜。

 ちなみにこの次の写真が、大牟田駅を出て行く「おおよど」の後姿。多分、こっちの向きで入線して来る「おおよど」を撮ろうとしてたんでしょうが… 残念でした。


 「おおよど」を撮った後は、西鉄大牟田駅へ移動。ここから西鉄で福岡を目指します。

 ▼西鉄大牟田駅

 丸っこい湘南顔がかわいい、西鉄の元特急電車1000形電車です。  


 果たして上の1000形電車に乗ったのかどうかは不明ですが、この日乗った西鉄の切符も残っています。それによると大牟田から福岡までの切符には西鉄柳川と西鉄久留米の2ケ所の途中下車印。
 最初の西鉄柳川ですが、ここには車両基地があります。多分、電車の車窓から車庫が見えたので、あわてて降りた、という南島原と同じパターンと思われます。  ただし、さすがは九州の雄たる西日本鉄道、当然のことながら車庫の中には入れず、遠巻きに何点か撮っているだけです。

 ▼多分、柳川車庫

 西鉄2000系。営業運転中の特急列車ではないかと…



  ▼場所不明

 200形と60形のコンビですが、サボには「広報車」とあります。
 調べてみたら、手前の200形は国鉄のキハ07っぽい外観を持っていますが、昭和12年製の西鉄オリジナルの電車でした。一方、奥の60形は元々は博多湾鉄道汽船のガソリンカーだったりします。
 ユニークなコンビですが、まぁ、第一線を退いた電車が広報車(具体的に何をしているのかは判りませんが…)として使われているんだろうな、と思っていたら、西鉄甘木線にはこのタイプがゴロゴロしていました。


 という訳で、西鉄甘木線に乗っています。甘木線は西鉄大牟田線の宮の陣駅から分岐し甘木まで行く路線ですが、電車は大牟田線の花園駅まで乗り入れています。  手元の大牟田から福岡までの切符には、西鉄久留米駅の途中下車印がありますので、恐らくここから乗ったものと思われます。
 ちなみに西鉄久留米では途中下車してみたものの、格別見るものもなかったような…そんなざっくりした記憶があります(地元の方、すみません)。

 ▼200形車内

 丸みを帯びた連結面です。木のぬくもりがなんとも暖かく、昼下がりのゆる〜い感じ。こんな空間に身を置くことが出来た幸せ。今時の電車ではとても感じられないことですね。
 ちなみにこの電車の車掌さん。わりと若い方だったのですが、福岡弁というのでしょうか、訛りがめちゃめちゃキツクて、車内補充券を買うのにえらく苦労した記憶があります。業務中の車掌さんの言葉が聞き取れなかったのは、少なくとも国内では唯一の経験です(笑)  

 ▼甘木〜馬田

 よく判らないのですが、宮の陣から甘木までの間にこのクラスの鉄橋は他にないようですので… ここなのかな、と目星を付け、他の方の写真や動画をいろいろと見せていただきました。鉄橋の形は現在とは異なっているようですが、恐らくここで間違いないかと…

 それはそれとして甘木行きの200形、堂々の4連です。3両目はパンタがないので、サ250と思われます。

 で、この写真、鉄橋の甘木寄りから撮ったと思っていたのですが、陽の当たり方が変。鉄橋は東西に走っており、時間帯はお昼前後と思われます。甘木寄りの北東側から撮っていれば、サイドは完全逆光のはずなのに順光。ということは、馬田寄りからの撮影ということになります。ちなみに近くの橋を渡り対岸まで行くと約800mぐらいと微妙な距離感。多分、“素直”に目の前の鉄橋を渡ったんだろうな〜。なんか、当たり前のようにそんなことをやっていた時代でした(私だけ?)。良い子はくれぐれもそんな真似はしないでくださいませm(__)m

 ▼甘木〜馬田

 鉄橋の写真の後ろ向きポイントだと思われます(撮っている場所は微妙に違いますが…)。鉄橋の甘木寄りで撮っていたと思っていた時は、地図と比較してカーブがきつすぎるかと思っていたのですが、馬田寄りだとちょうどこんな感じになります。
 ネットで、ちょっと俯瞰気味にこの付近を撮られた写真を見つけまして、それによると写真右手に小高く見えるのが、国鉄甘木線(現甘木鉄道)の土手のようです。

 それにしても鉄橋もこのカーブもみんな後姿です。なぜ、前向きに撮らないんだろう、過去の自分に結構不満を感じてしまいます(笑)

 ▼甘木駅

 発車を待つ60形です。見た目は国鉄のキハ04にそっくりですが、前述のようにJR香椎線の前身である博多湾鉄道のガソリンカーでした。その後、紆余曲折を経て西鉄の電車となったという変り種です。

 前のカットが国鉄甘木駅の駅舎、次のカットが国鉄博多駅の筑紫口の駅舎と、この写真の撮影場所をネガから推測するのはちょっと難しいのですが、ホームの端の階段の形状からして甘木駅で(多分)よいと思います。
 


 西鉄甘木線は、最初に大牟田から福岡まで切符を買っていることからしても、多分イレギュラーだったと思います。しかも結構時間を使ってしまっているので、この先は特に寄り道もせずに福岡まで行っています。
 元々、この日は北九州のローカル線を乗り潰す気だったはずなのですが、でも結果オーライ。甘木線で正解だったと思います。これでもうちょっとちゃんとした写真を撮っていれば完璧ですけど…

 何はともあれ、西鉄の福岡駅から国鉄の博多駅までは分不相応にもタクシーを利用しています。当時はまだ地下鉄が開業しておらず、バス乗り場を探すのも面倒になってのことですが、とにかく滅茶苦茶飛ばすタクシーで、当時既に死語となっていた「カミカゼタクシー」なんて言葉を思い出してしまいました。
 

 ▼宮地岳線

 博多駅の次の写真は、宮地岳線(現貝塚線)の120形です。撮影場所は不明。ただ、この後の写真が、西鉄香椎駅、国鉄香椎駅と続きますので、推測するに、博多から鹿児島本線で香椎まで来て、この写真も西鉄香椎駅付近で撮ったものと思われます。
 ちなみに香椎で降りた理由ですが、恐らく少し前に読んでいる松本清張の「点と線」の影響であることは明らかです(*^_^*)

 ▼西鉄香椎駅

 ▼国鉄香椎駅

どちらもそれぞれにいい味を出していますが、駅ビルと化したJR香椎駅、高架化された西鉄香椎駅、ともに現在の姿を想像することはとてもできません。西鉄香椎駅のベンチに座る女子高生、国鉄香椎駅前でたむろする男子高生、みなさんいい年こいたおばさん、おっさんになっているはずです(笑)

 ▼国鉄香椎駅

香椎駅を通過する上り貨物列車と思われます。牽引するED73は、貫通扉なしの鳩胸タイプ。東北ではなじみのない、いかめしい雰囲気の交流電気機関車でした。



 香椎から先の行動、と言えば、当初の目論見では3日目の続きで北九州地区のローカル線の乗り潰しを目論んでいたはずですが、物証となるのは「若松駅」の入場券と折尾駅前と思われる写真だけ。
 普通に考えて、香椎から鹿児島本線で折尾まで行き、筑豊本線に乗り換え若松。ここから折尾まで折り返し、さらにいくつかローカル線を乗っておきたかったところですが、多分、西鉄甘木線で時間を使いすぎ、タイムアップかな? その後乗る、西鹿児島行きの急行「かいもん5号」は門司港21:39発ですから、その気になればもう少し行けそうですが、ちょっと疲れが出てきましたかね。折尾から門司港まで、少なくとも小倉までは普通に鹿児島本線に乗っています。と断言できるのは、ここで嫌な記憶があるからです。

 駅間で突然速度を落とした上りの普通電車。なんだろうと何気に外を見ると車外はすでに薄暗くなっています。そして間もなくやたらゆっくりと走る下りの貨物列車とすれ違いました。その瞬間、ものすごく嫌な予感がしたんですよね。そしてすれ違った後、小さな街灯に照らされた踏切が… そこには10数人の人たちが取り囲むように立っていました。その中心には子供が横たわっています。
 人身事故でした。電車は間もなく通常の速度に戻りましたが、重いものが心に残ってしまいました。一瞬とは言え、遺体を見たのは恐らく初めてのこと。私の好きな鉄道によって失われた幼い命。しかも数時間後にはそのレールの上を通らなきゃいけない…

 しばしルートの変更も考えましたが、結局は予定通り門司港から急行「かいもん5号」に乗りました。小倉ではこちらも予定通り、島原鉄道で一緒になった大学生とも合流。事故現場付近では二人で黙祷しました。
 

 ▼急行「かいもん5号」

 博多駅で約40分の長時間停車の間に反対側のホームまで走り撮影しました。後ろ2両が元祖ブルートレインの20系の寝台車、その前に5両の12系座席車と1両の荷物車で編成されていました。写真ではほとんど見えませんが、テールサインには「急行」の文字が入っています。  



7〜8日目 [3月9日(日)〜10日(月)]

 九州も今日でお別れという朝は雨です。大学生と別れ、終点西鹿児島の手前にある伊集院駅で下車。目的は鹿児島交通のキハ07タイプの気動車ですが、乗車はせずに見るだけです。て、いうか、なぜ乗らなかったんだろう? ひと駅、ふた駅ぐらいは乗れそうな気もするけど…
 時間を調べてみたら、伊集院発6:08。途中、20分ぐらい走ったあたりで西鹿児島まで直通する列車と交換します。万が一、この列車に乗り換え損なってもその先の日置で交換する列車に乗れば、伊集院着が6:59。7:10発の鹿児島行きの普通列車に接続しています。う〜ん、全然OKじゃん。やっぱりヘタれてましたかねぇ〜。

 ▼伊集院駅

 キハ07タイプのキハ100形です。
 鹿児島交通は、この3年後の昭和58年6月におきた豪雨災害のため全線で不通となり、その後、日置〜加世田間で運転を再開したものの、翌年の3月には全線廃止。
 その間に鹿児島交通を訪れることはなく、このキハ100形も乗ることなく終わってしまいました。
 やっぱり乗っておくべきでした。と今頃言っても始まりませんが…
 

 ▼伊集院駅と思ったら…

 こちらはキハ10タイプのキハ300形です。
 6:54発の西鹿児島直通列車だと思われますので、この列車で西鹿児島まで行っているのかもしれません。もしかしたらこの列車にキハ100形が使われるのではないかと期待していた可能性もありますが、実際のところ西鹿児島直通列車はキハ300形に限定されていたようです。

 で、この写真、原版を改めて見てみたら後ろに見えるビルに「日本食堂」「べんとう」の文字が見えます。なんとなく伊集院の駅にはふさわしくないような… しかもよく見たら、キハ300が停まっているのは5番線ホームですね。ということは、ここは西鹿児島駅。やっぱりこのキハ300に乗って西鹿児島まで来たようです。
   


 改札を抜けたらその前に並ぶ薩摩揚げの路地販売?に思わず「鹿児島」を感じてしまいますが、とりあえず駅前で鹿児島市電を撮っています(ボケてましたけど…)。

 その後は、西鹿児島駅と列車で移動した鹿児島駅で何枚か撮っています。
 

 ▼L特急「有明」

 西鹿児島での撮影です。仙台でもお馴染みだったクハ481のボンネット車ですが、ひげなし赤スカートで、東北を走る車両とは結構印象が違っています。
 

 ▼ED76

 こちらは鹿児島駅での撮影。九州の交流電機の雄「ED76」です。右側の列車で西鹿児島から鹿児島まで来たのかもしれません。
 色こそ東北の主力電機「ED75」と一緒ですが、貫通扉なしでF級クラスの長い車体がカッコいいなぁ〜、と素直に思ったか、なんだか馴染まねぇなぁ。と思ったかは、今となっては定かではありません。

 ▼鹿児島駅前

 鹿児島市電の鹿児島駅前電停です。場所は今と変わっていないようですが、雰囲気がちょっと違いますね。右側の電車は今はなき3系統「伊敷町」行きです。塗装は現在の標準色と同じようですが、ワンマンを示す白帯は入っていません。
 


 まだ午前中ですが、7泊8日の初めての九州方面作戦はほぼ完了です。ここから今回3度目の夜行列車に乗ります。最初は、門司港から長崎までの普通列車「ながさき」、2番目はやはり門司港からの急行「かいもん5号」、と順番にランクを上げて3番目はついに特急「富士」に乗ります。当然、寝台車。しかもA個室。この旅、最大の贅沢です(笑) 「富士」の西鹿児島の発車時刻は…


 うっ、やばい!

 ここに至ってとんでもないミスに気づいてしまいました。ここまであちこちで列車の時刻を書いてきましたが、これは旅行の時に使った時刻表が見つからなかったため、比較的近かかった昭和54年4月号の時刻表を基に書いていました。この時刻表の「富士」の発車時刻は9:41で、終点の東京着は10:10と、運転時間が24時間を超えています。
 「富士」は、私が乗る少し前まで日本で唯一24時間以上かけて走る列車だったのですが、日豊本線全線電化の完成により、西鹿児島〜宮崎間の牽引機がディーゼル機関車から電気機関車に変更されました。その結果、運転時間が24時間を切ったのですが… 迂闊だ。てっきり53年10月の改正の時だと思ってました。
 そう言えば、牽引機がDF50じゃなくなってがっかりしたんですよね〜(泣)

 いずれにしても、これまで書いてきた列車の運転時刻の信憑性が一気になくなってしまいました。ど〜しよう? 改めて調べてみたら、日豊本線の全線電化は約半年前の昭和54年10月でした。一応、手持ちの時刻表をいろいろ探してみたのですが、一番直近の時刻表は、小型の昭和54年9月号。ってダメじゃん。
 ウィキペディアの「1976年-1987年の国鉄ダイヤ改正」の項には、昭和54年は「この年はさほど大きな動きはなかったが、10月1日に日豊本線全線が電化され、寝台特急「富士」・「彗星」の速度が向上した。」とあり、あとは8月に運航を開始した「SLやまぐち」号に触れているだけ。ゴーサントウとゴーゴートウの大きなダイヤ改正の狭間でもあり、恐らく影響範囲は日豊本線の一部列車のみだったのだろうと推測し、すみません、コレまでの列車時間については、このままにさせてください。てか、え〜っと、…ごめんなさい。

 気を取り直して…(^^ゞ、「富士」の西鹿児島発車時刻は、10:15。これは手元に残っている特急・寝台券に記載されています。ともかくこれで一気に東京へと向かいます。

 ▼鹿児島駅

 ED76と25系客車。「富士」の編成かなと思ったのですが、「富士」なら電源車がこちらを向いているはず。ということは「はやぶさ」? でしょうか。

 ▼「富士」

 これは西鹿児島での発車前にあわてて撮ったものと思われますが、もう少し撮りようがあると思うのですが…


 「富士」の発車にあわせて、あの大学生が見送りに来てくれました。ホントにいい人だ〜(笑) ありがとうございました。

 鹿児島を後にした「富士」は、錦江湾に沿って走ります。対岸には煙を吐く桜島が見えるはずなのですが…、雨の中ではそれもかなわず、かろうじて山裾が何とか見えるだけ。その上は厚い雲に覆われています。
 この島はいまひとつ縁の薄い島で、これまで鹿児島にはこの時を含めて5回ほど行っているのですが、全容が見えたのは1度だけ。その1回も薄ぼんやりと見えただけで、一度もあの迫力の姿を見ていません。今度こそはと思うのですが…、という未来の未練をよそに「富士」快調に電化区間を走っていきます。

 とりあえず、狭苦しい個室寝台ですが、昼間から人目を気にせずに寝そべる幸せ、っていうのはありますね。何しろ1両しかないA個室ですから堪能しなければもったいない。
 

 ▼個室寝台

 狭いです(笑) 標準レンズではここまで引くのが精一杯で全容は見えません。左奥がテーブル兼、洗面台です。とりあえずほぼ丸1日はここの主です。

 ▼リニア実験線

 車窓から見えるリニア実験線です。もちろん山梨のではなく、当時宮崎にあった実験線で、当時は跨ぐスタイルのML500が走っていた頃だと思います。来ないかなぁ〜、と目を凝らしていたのですが、磁石が並ぶ高架橋を見るだけで終わってしまいました。って、よく考えたらこの日は日曜日。リニアもお休みですね。

 ▼▼カーブを行く「富士」

 日豊本線を走るブルートレイン「富士」。特急列車ですので窓は開きませんが、1ヶ所だけ開く場所があります。それは車掌室。ダメ元で頼んでみたら、あっさりと入れてくれました。さすがはA個室の威力!でしょうか(笑)

 編成が短いので、大分よりは手前ですね。


 お昼ごはんに西鹿児島で買った「とんそく弁当」を食べ、大分で基本編成を連結するための長時間停車の間に入場券を買いに走ったりした以外は、まったりと時が過ぎていきます。まだ、午前中だというのに靴下もGパンも脱いで楽〜な姿でくつろげるのは個室寝台ならでは。ひたすらせわしかった旅を振り返るゆとりの時間です。

 ▼どこでしょう?

 なんだかよく判りません。格別な景色ではありませんが、九州の山野に惜別の思いを込めての1枚…なのかなぁ〜


 特急「富士」は関門海峡をくぐり九州を離れます。トンネル専用機の電気機関車EF30を撮るために走る「富士」の車内を移動。私の乗った1号車は電源車を除けば最後尾。大分を過ぎたこの時点で「富士」は13両編成ですので距離は260m。揺れる車内ではちょっとした移動距離です。

 ▼EF30

 下関駅、のはずです。門司でも撮るチャンスはありますが、EF30の連結が終わればすぐに発車してしまいますので、リスクが大きすぎ。下関ならば到着直後に撮れば後はEF30からEF65に付け替える間に余裕で客車に戻ることが出来ます。

 にしても、写真はダメすぎです。完全なピンボケ。これが私が撮った唯一のEF30だというのに…


 この日の夕食は食堂車へ行ったような気がするのですが、何を食べたかの記憶は一切なし。何はともあれ広島あたりまでは起きていたのですが、目を覚ますと外は快晴。

 ▼特急「富士」から見た富士山

 青空の下、富士山が見えました。ただ、手前の家がちょっとうるさい感じ。もうちょっといい場所はなかったのか、と思いますが、もうちょっといい場所に行く前に山裾の雲が山全体にかかって撮れなかったような気がします。


 朝食はどうしよう、と考えていたらこんな編成の端っこまで車内販売が来てくれました。でもたまたま廊下にいた時なので気づきましたが、個室にいたら気づかないままだったかもしれません。ラッキーなサンドイッチを食べたら、横になってもう一休み。なんだかグダグダな時が過ぎていきますが、「富士」はちゃくちゃくと終着駅へと近づいていきます。

 もうしばらく乗っていたいなぁ〜、などと思っていたら、品川駅構内で信号故障が発生し、「富士」は横浜駅で足止め。
「お急ぎの方は京浜東北線をご利用ください」
なんてアナウンスも流れています。
 いつまでたっても動く気配がないので車掌さんに聞いてみれば、あと30分は動かないとのこと。それをよいことに横浜駅構内をウロウロし、25分ぐらいでホームに戻ってきたら… ホームには発車のベルが鳴り響き、既に「富士」のドアは閉まっています。
「えっ!」
車掌室の窓から身を乗り出していた車掌さんと目が合うと、
「あっ、お客さん?」
慌ててドアを開けてくれましたが、間一髪でした。

 かくして、特急「富士」は24時間超えで東京駅に到着したのでした。


エピローグというほどのものではないけど・・・

 東京についた後は、一度横浜へ戻り広島とは別の従姉の家でお昼をご馳走になり、夕食用にと崎陽軒の「シウマイ弁当」を持たされ、あとは、素直に「ひばり」で仙台へ戻ったと思います(この特急券は見つかりませんでしたが…)。

 という訳で、私の「第一次九州方面作戦」の顛末は以上で終了です。

 この旅行中に撮った写真のうち、プリントで残っていたのは10枚程度。旅の全容からは程遠いものでしたが、今回、改めて全カット約170枚をスキャンしてみました。いずれも拙い、というかそれ以前の写真も多数ありますが、写っている車両たちはいずれも個性豊かなツワモノぞろい。見ているだけで懐かしく思われます。その写真たちを順番に並べてみると忘れていた色々な出来事が思い出されてきました。
 さらに写真1枚1枚を分析し(ってほどではありませんが)、いつ、どこで撮影したかを確認する作業を続けることで、30数年前の九州旅行がそこそこ再現できたのではないかと思います。それは、一種、謎解きのようでもあり、あの頃の自分と一緒にもう一度旅をしているようでもあり、思いのほか楽しい作業でした。

 とは言いながら、過去を振り返るだけではやっぱり…空しい。現存するJR線としては唯一未乗となっている九州新幹線の博多〜新八代間があるし、福岡市営地下鉄の七隈線も乗ってないし… これを書いているうちにあの時以来乗っていない筑豊電鉄も乗りたくなってしまいました。

 あ〜、そろそろ「第八次九州方面作戦」を実施せねば! と思う今日この頃です(笑)

 何はともあれ、途中で挫折することなくここまで読んで下さったあなたに感謝。
 

 
左側に「旅日記 メニュー」がご覧になれない方は、 ここ をクリックして下さい。